岩崎こよみの経歴や小学校時代、中学時代、高校時代の情報を通して、彼女がどのようにしてトップアスリートへと成長したのかを詳しくまとめました。
岩崎こよみの経歴まとめ|セッターとして歩んだ波乱と挑戦の道のり

バレーボール選手って、ずっと同じポジションでプレーするのが普通だと思っていました。

そう思われがちですが、岩崎こよみさんのように大きな転向を経験した選手もいます。その転機が、彼女の経歴を語るうえで重要なんです。
岩崎こよみさんは、バレーボール界でも特に注目されている選手の一人です。ポジションの転向や海外移籍、出産を経ての現役復帰など、ただのスポーツ選手では語りきれないストーリーがあります。そんな彼女の歩みをひとつずつ見ていきましょう。
代表入りから海外挑戦まで──岩崎こよみのプロキャリア年表
岩崎こよみさんのキャリアは、一言では語り尽くせないほどの変化と挑戦に満ちています。高校卒業後、実業団チームに入団し、アウトサイドヒッターとしてプレーしていましたが、途中でセッターというまったく違うポジションへ転向しました。その後、国内リーグで活躍し続け、さらにイタリアリーグへの海外移籍も経験します。異国の地で言葉も文化も違う中、自分の力を試し続けたその姿は、バレーボールファンに大きな感動を与えました。そして日本代表として国際大会に再び名を連ね、キャリアの幅をさらに広げています。
年代(おおよそ) | 所属チーム/活動 | ポジション | 備考 |
---|---|---|---|
小学生 | 狛江セブン | アウトサイドヒッター | 姉の影響でバレーを始める |
中学生 | 下北沢成徳中学校 | アウトサイドヒッター | 強豪校で基礎固め |
高校生 | 下北沢成徳高校 | アウトサイドヒッター | キャプテン・ジュニア代表選出 |
社会人(初期) | パイオニアレッドウィングス | セッターへ転向 | チーム事情も影響し転向 |
社会人(中期) | (旧)上尾メディックス | セッター | 主力選手として活躍 |
海外挑戦 | ラルディーニ フィロットラーノ | セッター | 海外経験を積む |
現在 | (現)埼玉上尾メディックス | セッター | 出産後も現役復帰、日本代表再選出 |
出産と復帰を乗り越えたママアスリートとしての再出発
岩崎さんが特に注目されたのは、出産を経て競技に復帰した点です。一度母親になると、体の状態や生活環境が大きく変わるため、トップアスリートとして戻るのは簡単なことではありません。彼女は一時的に現役を離れましたが、子育てと両立しながらトレーニングを再開し、見事にチームの正セッターとして復帰しました。競技力だけでなく、周囲の理解やサポートも活かして、バレーボールと家庭のバランスを取っています。ママでもアスリートとして活躍できる、という姿勢が多くの人に希望を与えています。
ポジション転向と努力が実を結んだ代表復帰の舞台裏
もともとはスパイカーだった岩崎さんが、セッターに転向した背景には、チームの事情や自身の可能性を見つめ直すきっかけがありました。自分のスタイルを変えるには大きな勇気が必要ですが、彼女はその決断を前向きに受け入れ、地道な努力を積み重ねました。その結果、日本代表にもセッターとして選出されるようになり、大舞台でのプレーが評価されるようになります。見えないところでの積み重ねが、確かな成果となって表れているのです。
岩崎こよみの小学校時代|バレーを始めたきっかけと原点

そんなに小さいころからバレーって本格的に始めるんですか?

確かに驚きますよね。でも、岩崎さんが所属していたクラブでは基礎をしっかり身につけていたようです。その頃の様子を見てみましょう。
岩崎こよみさんのバレーボール人生は、小学生の頃から始まりました。スポーツとの出会いは偶然のようで必然でもあります。彼女がどのようにしてバレーボールと出会い、その後のキャリアにつながっていったのか、まずは原点から紐解いていきます。
狛江七小での出会い──姉に影響を受けたバレーとの始まり
岩崎さんがバレーボールに出会ったのは、小学3年生の頃です。きっかけは、バレーボールをしていたお姉さんの姿を見たことでした。最初は軽い気持ちで始めたバレーでしたが、気がつくと夢中になっていたそうです。通っていた狛江市立第七小学校では、地元のクラブ「狛江セブン」にも所属し、練習にも熱心に取り組んでいました。当時は全国的な大会に出場していたわけではありませんが、仲間と楽しく汗を流しながら、自然とプレーの基本を身につけていったようです。
バレー少女としての日々と地元クラブ「狛江セブン」での活動
地元のクラブ「狛江セブン」での活動は、岩崎さんにとってバレーボールの基礎を学ぶ大切な場所でした。練習は週に数回(例:3〜4回程度)行われており、基本的なフォームやパス、サーブなどを丁寧に練習していたようです。また、月に一度ほどのペースで地域大会にも出場し、実戦経験を積んでいきました。クラブの雰囲気は和やかで、楽しく体を動かしながらスキルを習得できる環境だったと考えられます。ここでの体験が、後の競技生活につながる土台を築いたのです。
活動内容 | 頻度(目安) | 特徴 |
---|---|---|
練習 | 週に数回(3〜4回程度) | 基礎練習中心の指導 |
地域大会参加 | 月1回程度 | 市内や東京都内の大会に出場 |
チームイベント | 年数回 | 合宿や交流試合もあり |
練習試合 | 随時 | 他クラブと交流しながら実戦を経験 |
自分は特別じゃない──岩崎こよみが語る小学生時代の自分
岩崎さんは当時を「特別な才能があったわけではない」と振り返っています。最初はネットにボールが届かず、思うようにいかないことも多かったそうですが、だからこそ負けず嫌いな性格が前向きな力に変わっていきました。仲間と過ごす時間が楽しくて、練習も苦ではなかったといいます。そんな日々の積み重ねが、自然と競技への情熱に火をつけ、次のステージへ進むきっかけになっていったのかもしれません。
岩崎こよみの中学時代|名門成徳学園で才能が磨かれた3年間

中学時代って、まだそこまで厳しい練習ってしないのかなって思ってました。

実は成徳学園のような強豪校では、中学生でも本格的な環境に身を置いています。その中でどんな日々を過ごしていたのでしょうか。
中学生になると、岩崎こよみさんはバレーボールの名門校である成徳学園中学校へ進学します。この時期は技術面だけでなく、精神的にも大きく成長するターニングポイントでした。ここでは、その成長過程を丁寧に見ていきましょう。
成徳学園中学進学と強豪チームでの基礎固め
中学校進学後、岩崎さんはバレーボールの強豪校である成徳学園に入学しました。ここで彼女は、全国レベルの選手たちと肩を並べながら練習に取り組むことになります。小学校時代とはまったく異なるレベルの練習や試合に直面し、最初は戸惑いもあったようです。それでも持ち前の粘り強さで毎日の練習に真剣に取り組み、基礎技術を徹底的に磨きました。仲間と切磋琢磨することで、プレーに対する理解も深まり、確実に成長を遂げていきました。
競技力と精神力を育てた中学時代のトレーニング環境
成徳学園では技術練習に加えて、メンタル面の育成にも力が入れられていました。岩崎さんは、厳しい練習や試合の中で、強い心を育んでいったのです。プレーの成功や失敗に一喜一憂するだけでなく、チーム全体を見渡して行動することが求められる環境の中で、彼女は次第にリーダーとしての素質も発揮し始めます。まだジュニア代表に選ばれるような目立った成果はありませんでしたが、確かな成長が内側で積み重ねられていた時期といえるでしょう。
大きな記録はなかったものの、次への土台となった中学時代
中学時代の岩崎さんは、大きな大会での入賞や代表歴こそ記録に残っていませんが、自身の技術と考え方を大きく進化させる土台を築いていました。成徳学園での3年間は、後の全国的な活躍を支える重要な基礎となったのです。日々の練習を通してバレーへの取り組み方を見つめ直し、「もっと上を目指したい」という思いが一層強まっていきました。この時期を経たからこそ、高校での飛躍やその先の代表入りへとつながったのだといえるでしょう。
岩崎こよみの高校時代|下北沢成徳でキャプテン&エースとして活躍

高校でキャプテンってすごいけど、どうして岩崎さんが選ばれたんでしょう?

実力だけじゃなくて、人としての部分も見られていたんですね。そのあたりを次でご紹介しますね。
岩崎さんは中学からそのまま下北沢成徳高校へと進学しました。高校時代は彼女にとって大きな飛躍の時期となり、全国から注目される存在へと成長していきます。その足跡を具体的に追ってみましょう。
全国屈指の強豪校でキャプテンに任命された理由とは
下北沢成徳高校は、数々の名選手を輩出してきた全国的な強豪校です。その中で岩崎さんは、3年生時にキャプテンとしてチームを引っ張る立場に任命されました。これは、単に技術が高いからという理由だけではありません。練習への姿勢、仲間への声かけ、ピンチのときの行動など、すべてが周囲から信頼される要因となっていたのです。コートの中でも外でも、岩崎さんはチームにとって欠かせない存在となり、キャプテンとしての責任をしっかり果たしていきました。
エースアタッカーからセッターへ──異例の転向のきっかけ
高校ではエースとして攻撃の中心を担っていた岩崎さんですが、のちにセッターへ転向するという大きな決断をします。前述したように、これはポジションとしては真逆とも言える役割です。攻める側から、今度はチームを操る司令塔としての役割を引き受けるには、大きな勇気と覚悟が必要でした。高校時代に培った観察力や判断力、そしてリーダーシップが、セッターへの転向においても大きな強みとなりました。この経験が、後の代表選出にもつながっていきます。
全日本ジュニア代表選出!高校時代に掴んだもうひとつの舞台
高校生活の中で、岩崎さんは全日本ジュニア代表に選出されるという大きなチャンスを掴みます。これは、高校生としては非常に名誉あることであり、彼女の実力と努力が正当に評価された結果です。アジアや世界の選手と対戦する機会を得たことで、自分の課題や可能性をより深く理解することができました。この経験は、国際的な視野を持つ選手へと成長するきっかけとなり、今後のキャリアにも大きな影響を与えるものとなりました。
岩崎こよみの人生を彩る転機と現在|未来へつなぐ“母であり選手”の軌跡

出産してもトップ選手として戻れるなんて、本当にできるんでしょうか?

簡単な道ではなかったはずです。でも、岩崎さんは自分のペースでその道を選びました。どんな経緯があったのか、これから詳しく紹介しますね。
バレーボール選手としてだけでなく、母としても生きる岩崎こよみさんの人生には、数々のターニングポイントがあります。挫折や変化を受け入れながらも前に進んできたその姿に、多くの人が勇気をもらっているのです。
引退の危機を超えて──アキレス腱断裂からのカムバック
ある試合中に岩崎さんはアキレス腱を断裂するという大けがを負いました。この怪我は選手生命を脅かす深刻なもので、一時は引退も考えたほどだったそうです。しかし、治療とリハビリを経て、再びコートに戻るという強い意志を持ち続けました。リハビリの期間は長く孤独な戦いでもありましたが、少しずつ動けるようになる喜びを感じながら、地道に努力を続けた結果、完全復帰を果たします。その後の活躍が、彼女の強さと覚悟を物語っています。
イタリア挑戦で得たものと日本復帰後の成長
日本国内だけでなく、岩崎さんは海外リーグにも挑戦しました。イタリアのクラブでプレーしたことで、これまでとは異なるプレースタイルや戦術に触れる機会が増え、視野が広がったといいます。言葉の壁や生活習慣の違いに苦しむこともありましたが、それでも前向きに経験を吸収し、選手としての幅を大きく広げていきました。日本に戻ってからは、その経験を活かしたプレーが評価され、再び代表にも復帰するなど、更なる成長を遂げています。
家庭とバレーボールの両立が生み出す新しいアスリート像
母になったことで、岩崎さんの生活は大きく変わりましたが、それでもバレーボールを続けるという選択をしました。家事や育児と、プロのトレーニングや試合を両立することは、想像以上に大変です。しかし、家族やチームの支えを得ながら、どちらにも真剣に向き合ってきました。その姿勢は、同じように家庭と仕事を両立したいと考える多くの人に希望を与えています。今では「ママアスリート」として、後輩たちのロールモデルにもなっています。
まとめ
岩崎こよみさんの歩みを追うことで、競技者としての強さだけでなく、人としての芯の強さにも触れることができました。以下に、彼女のキャリアを理解するためのポイントを整理しました。
- 小学生時代に姉の影響でバレーボールを始めた
- 狛江セブンという地元クラブで基礎を習得
- 成徳学園中学校で本格的な競技スタイルを身につけた
- 中学時代にリーダーシップを発揮する下地ができた
- 高校は全国屈指の強豪・下北沢成徳高校に進学
- エースとして活躍しながらキャプテンにも就任
- 高校時代に全日本ジュニア代表として国際経験を積んだ
- 卒業後、パイオニアでプロキャリアをスタート
- セッターへの転向という大きな決断を下した
- アキレス腱断裂という大怪我を乗り越えた
- 埼玉上尾メディックスで正セッターとして活躍
- イタリアへの海外挑戦で新たな価値観を獲得
- 母となり出産後も現役復帰を実現
- 代表復帰を果たし、再び国際大会に出場
- 家庭と競技の両立という新たな生き方を確立
人生の選択と向き合いながら、着実にキャリアを築いてきた岩崎こよみさん。その姿から学べることはとても多くあります。
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